ヘッダー画像



「飼飯(けひ)の海の 庭よくあらし刈薦(かりごも)の 乱れ出づ見ゆ 海人(あま)の釣船 」
柿本人麻呂が慶野松原を詠った歌が万葉集に採択されています(歌碑があります)。「国生みの島」といわれる淡路島の歴史は古代にさか上り、松原の近くからは銅鐸や銅剣などが数多く発掘されています。また松原の中には大和朝廷の天皇の行在所があって、その傍にあったと言われる古木の切株(御所松)が残っています。
江戸時代に徳島藩が松林の育成を奨励することで、現在のような見事な松林が出来上がったものと考えられ、その当時の松原の面積は現在よりもさらに広かったと推定されています。
江戸時代末期の安政4年 (1857年) に、小西友直・小西錦江の父子の手で完成した淡路島の地誌 『味地草』にも慶野松原の記事があり、井原西鶴は『名残の友』という作品に「景野の松原は数万本の木振り、悉く異風にして・・・」と記しており、現在の慶野松原の特徴がすでに表現されています。
戦争中は松原が陸軍省燃料集積地とされ、ガソリンをドラム缶に詰め、慶野松原に穴を掘って埋めた・・などという不幸な歴史もありますが、電気やガスが普及していなかった昭和の初期までは、松原の松葉や松かさが、地元住民にとって貴重な熱源であった事はまちがいありません。